おちこんだりもしたけれど、私はやっぱりおちこんでいるような気がします。

不採用=人格を否定された、では必ずしもないのだろうが、面接の機会を与えられた上で落とされたということは、人柄の上で至らない点があるからこそ不採用なのであって、人柄も良く受け答えも難なくこなせる人間であれば、例え経歴がボロボロという条件であっても採用されていたのではないかと考えると、やはり僕は自分がどこか足りない人間なのだと思わざるを得ない。
それでは一体どこが足りないのかと省みても、一点のみを示してここが足りないと自分で気付くことのできる点はないのであって、むしろ足りないのは一点や数点どころではなく自分自身の全体に及んでいるのではないかと思うと、この経歴のボロボロであることもその「足りなさ」故のこの十年の結果を示すものであり、その「足りなさ」はもはや修正が不可能なほどに固着したものとしか思えない。
本当にそれが修正不可能なものであれば、例えボロボロの経歴が書かれた履歴書について特に重大に問題視されなかったとしても、僕は職種問わずこの先どの職場を受けても面接の場で足りないと思われ続け、組織に属して働くことは僕の側がどんなに望んだとしても一生叶わないのではないかという結論に至ってしまう。
あるいは人柄における「足りなさ」を抜きにして考え、面接の場において受け答えには特に難がない、しかし採用はされなかった、という場合、何が至らなかったのだろうかと省みると、それはボロボロの経歴に他ならず、やはりそれも「過去」という修正不可能なものであって、現在の自分には何をどうしても変えようがないことには「足りなさ」と何ら違いがない。
つまり、経歴、人柄、という両輪のいずれか一つでも規格に合致するものでなければ、容赦なく不適格の印を押されてしまう。そして、その両輪のいずれも今さら交換、修理することができない。
どこにも引き取られない車輌は、錆び付き自壊するかスクラップされるかを待つしかないのだろうか。