我想辞職或暫停工作,但目前的情況不允許我這様做,従而我会継続感到難受

また二年前の道をなぞるように辿れと言うのか。嫌だ。もうあんなのはこりごりだ。しかし今のままだと順当には事は運ばない。後釜が見付からない、人手がいないという理由で、許してもらえない。
今の時世、職があるだけいいのだろう。それをストレスで耐えられないからと自ら放棄するというのは、職が無く困窮する人を馬鹿にしている。しかしストレスに脆弱な僕は、その種類が弱点どストライクなストレスにぶち当たって、もう精神的ヒットポイントは残り少ない(と思い込んでいる)。明らかにこの状況から抜け出したがっている。このままだと、意図せずとも二年前の再来となるのかも知れない。
ただ現時点では、抜け出したいという思いは確かに逃げ以外の何でもない。大きなストレスを感じていたとしても、まだ精神的に崩壊したわけじゃない。その前に逃げるという行為は、自らの精神的不安定とその先の崩壊を回避するという理由を以て正当化されるのか? されないとすれば、「逃げるな」という言葉は「精神的におかしくなるまで続けろ」という意味に等しいのか? だとすれば「逃げるな」は「精神的に死ね」ということなのか?
極限状態にまで追い詰められた人の場合は、周囲が何と言おうと逃げるべきなんだろう。けれども極限状態にまで追い詰められる人ほど真面目だから今まで逃げてこなかったし、逃げろと言われても逃げない。逃げられない。
では僕の場合はどうだろう。客観的に考えれば僕のストレスは下らないものだし、何しろ客観的に考えられるくらいだ。極限状態が聞いて笑う。もともといい加減だから、誰かに逃げろと言われなくてもちょっとのストレスで逃げるし、今までも逃げてきた。だから今回も「精神的な崩壊の回避」という深刻なものではなく、単に「嫌なことからの逃げ」なんだろう。でなければ、悠長にネットなんてできないししていない。
例えるなら、ゴキブリが滅多に出ることのない家に住む綺麗好きな人が一度ゴキブリに出くわした時に叫ぶ「もう嫌、こんな家出て行きたい!」。ゴキブリに免疫がないのだ。もしもゴキブリが毎日のように現れる家に住む人がゴキブリに出くわしたとしても、叩いてゴミ箱に捨ててお終いだ。何とも思わない。後者の人が狂乱する前者の人を見た時、「たったゴキブリごときで馬鹿じゃないの」と思うだろう。
日常で圧倒的なストレスに揉みに揉まれている人にはそう同じように思われるくらい、多分僕のストレスなんてのは小っこいものに違いない。しかもそれで何度も逃げ出してきたのだから、要するに成長できていない。ストレスの許容量を拡げることができていない。だからこそ色々と理由を付けて逃げたがってしまう。悪循環。
その中で、僕の最も脆弱な点でストレスを感じる状況になってしまったのは、ただ運が悪かったのだ。どう転んだとしても、諦めるしかない。
と言いながら、明日の朝にはまた行きたくない症候群に罹っているのは目に見えている。晴れた空の下を、重たい足を引き摺りながら駅へ向かう。生きているのか、生かされているのか。