しかし、しかし、しかし

色々あるけれど、憂鬱になったら負けかなと思っている。寂しいから憂鬱になることはあるとしても、決して「寂しい=憂鬱」ではない。捉え方の問題だ。寂しさをどう捉えようとそれは個人個人の問題であって、誰からも強いられることのない内面にある自由だ。だから、爽快な寂しさだってあってもいい。
寂しかったとしても、こちらが決して乗り気になれやしない面倒な誘いが来ることもない。誰とも親しくないのだから、誰かから金を貸してくれとせがまれることもない。怪しい匂いのする契約の保証人になってくれとお願いされることもない。そう考えれば、寂しさだって気楽にも変わる。
独りが寂しくて憂鬱になったらなったで、世の中にはそこを付け込んでくる悪い人間さえいるだろう。「ほら、私はこんなにフレンドリーですよ、寂しくって仕方がないあなたにせっかくできたお友達ですよ」。そう暗にほのめかしながら繋がりを何年か維持して、最後には何百万もする訳の解らない骨董品やらネックレスやら掛け軸やらを買わせようとする。世間で寂しいことが負のイメージとして刷り込まれている中では、こんな「お友達商法」を実行する人間がいてもおかしくない。
寂しいことはいいことだ。どうせ寂しいのなら、豊かな寂しさを楽しもう。そう思うことにする。
けれどもやっぱり、心の奥底の隅っこでは寂しさから抜け出したい自分がちょこんと体育座りなんかしているのも見える。