虫の音聞こゆ獨りの夜に唯一の友の煙草吸ふ

これまで二十数年もの間に人間として過ごしてきて、僕の持つ価値観や性格とぴたりと同じものはおろか、似たようなものを持つような人と出会ったことがないのではないかと思う。
小学中学高校と何となしに親しくなった友達はいた。けれどももう今ではその誰とも何の繋がりもない。余計に二台持っている携帯電話には誰からも連絡が来ないから、携帯はただの月額使用料 2000 円 * 2 の目覚まし時計になっている。
そもそも友人として繋がりを保ち続けるのは、意図的にこちらから定期的に連絡しないといけないのか、あるいは本当に繋がる意味のある関係においてのみ繋がりは自然と保たれ続けるのか、一体どういうものなのかがまず理解できていない。これは理解しなければいけない種類のものなのか、対人関係を続ける上で自然と身に付くものなのかも分からない。もしかするとこれは生まれ付き持っているはずの能力だったものが、僕は欠落して生まれてきてしまったのではないかとも思ってしまう。
確かにこちらからは全く連絡は取らない。これは間違いなくいけないのだろう。それは今後において改善の余地があるからまだいい。けれども困るのは、過ごしている上で自然に身に付くはずの対人関係維持構築能力が欠落している場合だ。これは社会的な活動を全くしていない今の僕にとっては今さらどうしようもない。
もしかすると、相手にとって僕と関係を保ち続けるという利点が僕には感じられないのではないか? 端的に言えば、僕に何らかの性格的な問題があるから相手が自然と離れていく。思わず溜息が出る。
そうして僕は一人になってしまった。休みにどこかへ行こうと誘ってくれる友人もいなければ、誘える友人ももういない。普通の人には友達は百人いるのだから、僕が一人きりなのは間違いなく僕の問題でそうなってしまっているのだ。
そう思うと何だかやるせない気持ちが身体中に染み渡っていって、焦りにも似た大きな寂しさを感じる。今の状態がそうだ。普段の何も考えていない時は全く平気だった。けれども一旦考え始めると、もうどうにもならない。
実際に、大学に入り始めて寂しさを憶えた時、突然の思い付きで高校の時の友達に電話を掛けたことがあった。あれはたぶん、相手にしてみれば宗教かマルチ商法の勧誘の前触れか何かだとでも思われたんだろう。
そして今も、さきほど例の留学生の友人にメールを送った。インスタントメッセンジャで、昔の同い年の同僚の使用しているアカウントに登録申請をしたりもした。
こうして寂しさ極限。外で鳴いている虫さん、独りで寂しいから鳴いているのなら、僕がここにいる。