たばこ、タバコ、煙草

大学四年次に、病院実習へ行ったことがある。特に何処の病院も希望しなかったのにも関わらず、自宅から自転車で通える範囲にある非常に近所の病院が僕に割り当てられた。他の学生の中には、通うのに電車で何時間も掛かる病院が割り当てられた人もいたのにも関わらずである。無欲がツキを生むのかどうかは知らないが、僕は妙なところで運があると思う。
実習先の病院では糖尿病治療に力を入れていて、生活において自己管理ができていない糖尿病患者に対しては半ば強制的に教育入院という措置を取ってもいた。実習の中、そういった患者と同席して食生活習慣の改善を目的とした講義のようなものを受ける機会があった。患者は六十歳代と見えるご婦人方が数名。講義の前には彼女たちはげらげらと談笑していた。
栄養士だか何だか忘れたけれどそんな感じの人が部屋へ入ってくると、しばらく大人しくなる。講義者は、なぜ糖尿病において食生活の改善が必要かという話をし始める。論理だった解りやすいものだった。糖尿病だと心疾患や脳血管疾患のリスクも上がるために喫煙も控えなければならないから、禁煙をするようにと話が及ぶ。そこでご婦人方はげらげらと「止められないのよ」。講義者はそれに対して「止めて下さい」。ご婦人方、再びげらげらと「止められないんだもの」。講義者「いいえ止めて下さい」と半ば切れ気味。煙草の力は恐ろしいと思った。その後、彼女たちはもう喫煙を止めたのかどうか今も少し気になる。
別の日には、畑は違えども他に病院に来ている実習生全員を対象とした院長直々の講義会があった。僕と院長以外は皆女性。その中で精神科領域に話が及んで、鬱病患者の中には自殺を図る割合が低い群があって、それは喫煙者の群であるということを聞かされた。医療者、しかも医療機関のトップたる院長が部分的にではあるが喫煙の肯定をほのめかしているかのように取れて、これも印象深かった。
実習の最終日の前日、ちょうど祖父が亡くなった。心筋梗塞だった。何の前触れもなく突然逝ってしまった。その朝の雲一つない真っ青な秋空を、今も鮮明に覚えている。祖父は若い頃からヘビースモーカーで、一日に何箱も吸ったほどだったという。お陰で働き盛りに糖尿病に罹ったり、晩年は肺がんに侵されたりもしていた。それでも八十近くまで生きたから、天寿を全うしたと言えるだろう。祖父の訃報は聞いたが、あと二日実習に行かなければ単位が貰えないので僕は祖父に会うよりも実習を優先した。実習期間終了後の葬儀には行ったが、火葬場で知らないおばさんに酒を飲まされて酔った挙げ句に気持ちが悪くなったという思い出がある。


そんな僕は、今も喫煙者だ。一日に数本しか吸わないけれど、数年間吸っている。正直なところ、止めたい。金も掛かるし、匂いは臭いし、歯が黄ばむそうだし、健康に悪いし、冷静に考えてみれば何もいいことがない。本当に百害あって一利なしだ。けれども止められない。実習の時のご婦人方の「止められない」が解るような気がする。