働きたくない

僕は働きたくない。もちろん働けるものなら働きたい。自分の持てる技術を生かして、自分を必要としている人のために思う存分働きたい。
けれども今の僕には何の技術もない。立派な特技もない。だから僕は今何にもできないに等しい。もしこんなのが間違って労働の場に紛れ込んでしまったとしたら、職場の隅っこに木偶の坊として置かれ、皆から除け者にされて煙たく思われながら一日が過ぎるのを待ち、とぼとぼと家へと帰ると何の感想もなく飯を口に入れて、後は布団を敷いてただ寝るだけ、そんな毎日を何十年も過ごしているうちにいつの間にか歳を重ねて老いていき、気付いたら部屋で孤独死、無縁仏として葬られていた、そんな悲惨なことになりかねない。だからまだ働きたくない。
その一方で僕は気付いていた。「まだ働きたくない」を繰り返してもう数年経って、僕はその数年と同じ分だけ歳を取っていた。このままでは、確実にいけない。「働きたくない」を呟くごとに、僕は貴重な時間を、貴重な機会を失っているのだ。
僕のこれまで過ごした時間は、全く無為なものだった。何も生み出さないまま、ただ時間を無駄にしていた。それなのに、「働くことこそ時間の無駄」などとうそぶいていた。無駄なのは間違いなく、今の僕の過ごし方の方だった。
おまけに近所の人にも僕がニートであることが薄々気付かれている。「あの人は働きもせずに何をやっているのかしら」「きっと危ない人ね一日中頭に反社会的なことが渦巻いているんだわ爆弾でも作ってるんじゃないかしら」なんて噂が流れれば、僕は近所から要注意人物として扱われ、やがては毎朝汚物をポストに投げ込まれるなどの嫌がらせを受け、最後には住宅退去の請願文なんか集められたりして村八分を受けるかも知れない。別に他人からの評価なんて馬鹿だのアホだの思われようとこちらが普通に生活を送れる限りはどうでもよかったけれど、村八分は困る。
それに親や親族がいつまでも健在であることはない。大学生の頃に進学も就職もしたくないと言ったら担当教授にさんざん言われた言葉がそれだったけれど、確かにそれはそうだ。このまま働かずにいれば、親が労働力と経済力を失ったとき、自動的に僕は日々の生活が著しく不安定な人間にならなければならない。怪我をすれば血がだらだらと流れ続けるのを見ているしかない。そのままでは僕は失血死してしまうだろう。それも困る。今のところ、僕の中では「死にたくない」は「働きたくない」に優越している。だから、そうなる前に僕は働かざるを得ない。
僕は、もうそろそろ潮時を感じていた。働きたくない、けれど働かなきゃならない。


僕がもし働くのなら、以下の条件を満たした職場でないといけない。

  • 通勤に電車を使わない
  • 通勤時間は自転車で 30 分以内、あるいは徒歩 20 分以内
  • 終業時間は午後 5 時

要するに、家から近場の早く終われる職場でないといけない。これには色々理由がある。自分勝手な理由から、自分ではどうしようもない理由まで。
僕はまず電車に乗ることが大嫌いだった。一両の座席がほとんど埋まっている程度の車両に乗ると、途端に息苦しさを覚え、吐き気を催すことがほとんどだった。高校も大学も僕は電車に乗って通学したことがなかったから、きっと慣れの問題なのだろう。以前にこれで悩んだ挙げ句に医者に掛かったとき、パニック障害だろうと言われて薬を処方された。薬を飲んで乗っても具合が悪くなるのは収まらないからどうしようもない。フリスクなんかの清涼剤を飲んだ方がよっぽど効いている感じがするから、どうしても電車に乗らざるを得ないときはいつもそうして吐き気をしのいでいる。
空いた車両の中でもそうやってやっと我慢しているくらいだから、満員電車なんてなおさら、真っ平御免だ。人で大混雑の車両なんかに乗ったら、僕はきっと白目を剥いて泡を吹き、そのまま死んでしまうんじゃないかと思う。だから僕は混んでいる電車には滅多に乗らない。ほとんど同じ時刻に発車する快速と各駅停車があれば、迷わず各駅停車を選んで乗る。時間が掛かろうが、人の空いている電車が僕の中では優先されるのだ。しかし、もちろん通勤時のラッシュアワーに快速だろうと各駅停車だろうと空いている車両なんてないだろう。だから、通勤に電車を使わない範囲で通える職場であることは最低条件となる。
家に早く帰れることもまた条件の一つだ。僕は職場で夜遅くまで働きたくない。何時間も掛けて家に帰りたくない。すぐに帰り、家でのんびりと過ごす時間が欲しい。近所の体育館でサークル活動に汗を流す時間が欲しい。
サービス残業なんてものは考えられない。残業ですら吐き気のするほど嫌なものなのに、金も払われない時間を働くなんてどうかしている。もしも働いてそんなことが明示的にでも暗黙的にでも要求される職場だったら、僕は迷わず退職する。僕にとって、自分の時間が大切だ。そして自分の時間を削るのなら、それに見合った報酬を受けなければならない。サービス残業を率先して行い何の文句も言わない人間は頭がおかしいとしか思えない。


以上の条件に当てはまる職場を、インターネットの求人サイトで探すことが最近の日課となっている。
求人サイトはネット上にはいくつもあり、どのサイトでも条件を満たす職場が市内に 20 件ほど見つかる。僕の未来は、そんなに暗くないのかも知れない。
つくづく、僕は自分の持っている国家資格を取っておいて良かったと思う。