母の日や父の日から僕は目を逸らし耳を塞ぎたい

申し訳ありませんが、僕は母の日や父の日などはあまり好きではないのだ。別に親に虐待を受けていたとか激しく対立した関係にあるだとか、親個人に対して感情的な問題があってそういう日が嫌いなのではない。母の日父の日そのものが嫌いなのだ。
日頃の感謝を込めて何々をしましょう、という趣旨は解る。僕だって親に感謝の気持ちがないわけではない。よく僕をほどほどの健康体に産み、虐待もせずに育ててくれた。忙しい平日に挟まれた束の間の休息である休日に、僕などを外へ連れ出し遊んでくれた。稼いだ金の何割かを僕などの教育に注いでくれた。朝早くに起き、僕などに弁当を作ってくれた。その中で夫婦喧嘩が絶えなかったので、僕は何かとビクビクするような人間になった。両親の機嫌が悪ければ黙って気を遣って家事を行い、家庭の雰囲気が悪ければその前で不自然に戯けて見せ、母が家を出て行くと叫べば幼かった僕はその体を必死でつかんで放さず、父がイライラして寝床にその身を投げ出せば僕は何も言わず傍らに寄り添っていた。色々あったが、全く感謝するしかない。
けれども何故五月の第二日曜日に母に感謝し、六月の第三日曜日に父に感謝しなければならないのか。何故日本中の、いや世界中のかも知れない、親を持つ子の立場にある人々と一斉に感謝の気持ちを表す必要があるのか。僕は記念日だからといって感謝するのではない、僕の感謝したい時に感謝するのだ。僕の感謝を示す気持ちは僕だけのものなのだ。どうか記念日は僕の行動に干渉せず、放っておいて欲しい。何せカーネーションは一年中売られているのだから。
そう意地を張って僕は今年の母の日に連絡の一本もしない上におそらく母からであったであろう着信を無視するなど、本当に何もしなかったどころか母の存在を一切顧みなかったところ、それ以来訳の解らない罪悪感に襲われてしまっている。そうして母とそれ以外の家族全員からの連絡を取ることさえ拒絶している。
これだ。この何かしなきゃいけない感、何もしなかったら親不孝者、そして親の側は何かされることを期待し、何もされなければ寂しくなる。そんな義務感や期待感やらを強制される空気が、この母の日やら父の日やらに詰まってしまっている。詰め込まれてしまっている。
ただ実際のところ、そんな空気を勝手に感じて何かしなきゃいけない感を覚えているのは僕自身の方なのだから、僕の問題なのでしょうね。