非日常

交差点で信号待ちをしていて、道を走る車がふとハンドル操作を誤ってこちらへ猛スピードで突っ込んできたらどうしようかと考えていた。突っ込まれた時点でどうしようかと考える間もなくどうしようもないのだろうけれど。突っ込まれる直前にジャンプしたら体は衝突時に運転席のガラスに衝撃を吸収されてどうにかなるんじゃないかと思ったけれども、それでもおそらく衝突エネルギーに脆弱な人間の体は耐えられそうにない。恐ろしい。
そんな恐ろしい事故は実際に起こっているはずで、道を歩くという日常が事故という非日常に一瞬にして変わった場はこれまで数えきれぬほどあったのだろう。それがいつ僕の身に起きても不思議なことではない。
例えば車に限らず、後ろから突然グサリとされることだってあるかも知れない。別に恨みを買うようなリスクのある生き方などはしていないけれども、実際に見知らぬ人にそういうことをされる事例は世間にあったわけで、これもまたいつ僕の身に起きても不思議なことではないということになる。
もしかすると場を非日常に変える側になることだってあるかも知れない。坂道を自転車で爽快に駆けているとき、横の小道から急に人が飛び出してきたとしたら。後ろにお年寄りがいるとも知らず、道端に転がっている汚物を後ろに飛び避けたとしたら。制御できないほどの悪い感情に囚われている中で、そこに追い打ちを掛けるが如く嫌な出来事に見舞われたとしたら。
それだけれはなくて、急な病気に襲われることも非日常だろう。急死した人は間違いなくその非日常を経たはずだ。急死せずとも、もう死んでしまった祖先はみんな死の瞬間という非日常を迎えたから今生きていない。間違いなく僕も数十年後にはその最後の非日常を迎えなければならない。
非日常が怖い。
けれども怖い怖いとばかり思っていたらきっと外出なんてできなくなるし、僕は職場の隣に住んで家と職場とを行き来するだけの労働マシンになるしかなくなってしまう。もっと言えば生きていけなくなってしまう。生きたくなくなってしまう。
適当に生きたい。