こんなのは自分ではない

僕が望んでいたはずの自分の姿とは全く異なる自分がいる。そして「それ」が僕の日常生活を自由闊達に蹂躙し尽くしており、望みに反して崩れていく光景をただ指も咥えられずに僕自身の目を通して見ているだけで、しかも紛れもない僕自身の身体を通じて「それ」が体現しているという現実は、ただ苦しみを引き起こすものでしかない。引き起こすだけではなく、苦しみに引き千切られそうになって胃が痛む。心が痛む。頭が痛む。
しかし、はたから見れば僕の望んだ自分と現実の自分の姿が乖離しているということなど全く関係なく、「望みを抱いている僕」と「それ」は同一のものに外ならない。つまり「それ」は「僕」で、「僕」は「それ」なのだ。現実に表れている「それ」こそが「僕」なのであって、「こんなのは自分じゃないと叫ぶ僕」は現実に表れていない以上「僕」として認められないのだ。
僕が僕であることを望まない僕が僕だなんて、じゃあ僕が僕であることを望んでいない僕は何なんだ。僕は何処に在るんだ。