読書感想文の思い出

十年くらい前の今頃は、夏休みの宿題、特に読書感想文に困りながらもそれを忘れるかのようにして遊び呆けていた覚えがある。
読書感想文というものは、普段から読書や文章を書く習慣がない小中学生にとってはいじめにも相当するひどいものだ。本を読みたくないのにも関わらず読まなければならないという苦痛に加えて、特に感想もないのにもかかわらず感想を書かかなければならない。読書は子供の感性を磨き精神的成長を促し素晴らしいものであるから子供には読書をさせるべきだという根拠もない読書に対する評価を利用した、教師たちによる社会的に合規範的な子供いじめだ。
読書感想文は夏休みの宿題の中でも能動的にやらなければならないものの部類に入るから、片付けるのはだいたい後回しになって八月三十一日の始業式前日までやり始めない子供が多い。そこで少し頭の切れる不真面目な子供は読書感想文の不条理さを解っているから、本も読まずに巻末の解説をそのまま写して書いたりしてそれですました顔をしているのだけれども、中途半端に真面目で不器用な子供にはとてもそんなことができない。あくまでも周りにも自分の中にも真面目で通っているから、ずるいことはせずに自分の力でやり通そうと頑張ってしまう。
まず夏休み前に渡された推薦図書リストを見て推薦されるほどだからそこから選ばなければならないと思い込んで、わざわざ難しい推薦図書の本を取り寄せて読む。すでにそこで読まされ感があるから楽しく読めやしないで、ただ苦しみながら文字の羅列を目で追うだけになる。読み終わった時点で特に感想も持てない。
その後が本番で、原稿用紙とのにらめっこが始まる。感想がないから何時間経っても文字の埋まらない空白の原稿用紙を前にしてうんうんとうなり続け、結局再び本を開き直してあらすじを適当に抜き出すことにする。そこでも本を楽しく読めていないから滅茶苦茶なあらすじ紹介になって、また悩みながら消しゴムで消しては書き直しを繰り返してようやくあらすじを書き終える。
けれどそれでも原稿用紙は埋まらない。白い一マス一マスが長い苦行の道程に見えて、もう投げ出そうかとも思い始めるけれども小真面目だからそうはいかない。規定枚数未満だと先生に怒られちゃう、でも書けないものは書けない。うなり声はいつしかすすり泣きに変わって、自然と涙が流れてくる。
家族もみんな寝てしまった後になって、とうとう感想文なんてどうでも良くなってくる。書くことを何でもいいから頭から捻り出して捻り出して捻り出して書き込んで、ようやく書き終えて時計を見るとすでに日付をまたいでいて始業式当日になっている。
結局完成した感想文は、改行だらけのあらすじにところどころ感想がまだらに混じったようなもので、自分で読み返したくもないほど訳の解らないものに出来上がる。だから十年後になれば何の本を読んで何を書いたのかはもう覚えていない。
今はネットもあって簡単に読書感想文の書き方を学べるからうらやましい。児童書ではあまりないかも知れないが、一般文学書であれば感想を載せているサイトもあるから、それらと自分の感想とを照らし合わせて的外れなものではないかを目安にすることもできる。もしかすると、その感想そのものを丸写しする子供もいるかも知れない。
読書して感想を書くなんて、年端も行かない子供たちに強制的にやらせるものじゃない。そんなのはやりたい人間だけやればいい。僕は読書を面倒臭がるようになってしまったのは、そんな読書感想文のせいかも知れない。